練馬光が丘病院 救急救命室 救急外来の廊下で

練馬光が丘病院をWEBで調べる。住所と場所がわかれば何とかなるだろう。あれ?日大光が丘病院と練馬光が丘病院と二つあるのか?ん~どっちも住所は一緒だな。OK。とにかく現地へ行けば、手繰れるだろう。口コミとか評判とか、ネットで調べるなんてことはしなかった。正直、どうでもいい。もう搬送されているんだ。グダグダいってもしょうがない。大きな手術だなんだとかになれば、その時に考えろ。当直のERの担当者が優秀であるかどうかは、本人の運だろう。しかし、梯子の上で意識を失って、落ちなかっただけでも、父の運は尽きていない。
冷静なようでも、先ほどの指の怪我で動揺しているのは明らかだ。自分での運転は自重。
タクシーを拾って、練馬光が丘病院と告げる。「日大ですか」「いや、俺もよくわかんないんだ。練馬光が丘病院に救急搬送されたとしか聞いてない。住所は間違いないと思うから、カーナビ入れてみてよ。」
父が救急搬送という事情を話すと、見事な抜け道を駆使してくれた。むしろこっちが、「あんまり無理してとばしてくれなくてもいいよ」と心配になるほど、住宅地でコーナーを攻める。
到着し、警備室で聞き、総合受付で聞き、たどり着いた救急外来の部屋の外の廊下のソファーに母がいた。
最近の病院は、もう少し明るいイメージがあるんだが、なんだか薄暗い廊下である。壁も汚れが目立つ。何だかなぁの気分である。しかもヘルメットの作業服の人の往来がやたら多い。4月に日大から経営、運営が変わったなんて話は、後でわかった。内装や設備の工事を進めているんだろう。このあたりもきっともう少し明るくなるんだろうが、俺が行った時は、なんとも何とも。
母を落ち着かせるために、売店でペットボトルのお茶。長くなるかもしれないから、お腹に少し入れてくれと、持参してきたお菓子を渡し、半ば強制的に食べさせる。
待っているだけで、何もすることがない。息がつまりそうで、外の空気を吸いに出る。戻ってくると2人組のなんだか貧相な服装の男たちが母と話している。なんと光が丘署の刑事だった。誤解のないようにもう一度書いておくが、「貧相な服装」であって、人間が「貧相」なのではない。さらにそこへ、救急車の隊員さん。たぶんその車両のチーフかなんかなんだろう。母が刑事と取り込み中なので、俺が家族のひとりであることを確かめてから、救急車が到着した時の父の状態について説明してくれた。話の途中で刑事も合流。
どうやら、救急車を呼んで下さった方は、「男性が作業中に高所から転落して意識がない」という主旨で通報したらしい。救急車のセンターは、労災とか事故とかをイメージして、事件の可能性も考え警察にも連絡したようだ。いやぁ・・・、そうじゃないだろ。
最初から見ていた母、最初の話を母から聞いた俺以外は、転落して頭などを強打して意識を失ったというイメージを強く持ってしまっていたようだ。梯子の上で、泡をふいていたなんて母の話は飛んでいる。母が最初に助けを求め、親身になっていろいろやって下さった男性にもヒアリングはしたようだ。
刑事は、母の話、救急隊員の話で、事件性はないと判断しつつあるようだが、治療にあたっている医師にもヒアリングをする必要があるようだが、治療中なんで無理。刑事2人は去っていった。
救急隊員さんも説明が終わり、去っていくと、またやることがない。

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意識を失う
父が昏倒した。庭樹の剪定をしている時だ。しかも、場所は、2メートルほどもある梯子の上だ。何か言っているようだと、側で作業をしていた母が行ってみると、口から泡を吹きながら、どうにか梯子の上に留まっている状態だったらしい。 父の年齢は80代、母にしても70代。とても安全に梯子から降ろせる状態じゃない。母はとっさに、たまたま自転車で通りがかった男性に助けを求めた。男性は、さらに近所の応援を呼び、救急車
電話が来た。
電話をもらったのは11時ごろだっただろうか。 「父が倒れた。意識がない。梯子の上で泡を吹いて、どうしよう」 いきなりの話ではあるけれども、父も年齢も年齢。何かあるかもしれないとは、ぼんやりとは考えてはいた。俺が落ち着いてなきゃな。 「救急車は呼んだのか?」 「誰か、呼んでくれたと思うんだけど」「あの救急車、呼んで下さったんですよね」と周囲に確認する様子。 「とにかく救急車を確認して。俺も
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入院の準備
救急救命室の外で待っていると、やがて呼ばれた。意識が戻っているという。話も普通にできた。「手足も動くぞ」と本人は動かしてみているが、やめてくれ。大人しくしてくれ。それでもまずは一安心。あぁ、いつかくることではあるけども、今ではない。 医師は、今は落ち着いているけれども、調べないとわからない。とにかくこのまま入院してもらい検査をするべきです。よろしければ入院の手続きをして、入院に必要な準備をして下
小学校の先生たちが
一度帰宅して、タオルやらネマキやらを準備してこないといけない。母とタクシーで実家に向かう。 救急救命室の前での待ち時間、何回か家内には電話を入れていた。仕事が終わり次第来るつもりにしていたが、とりあえずの状況が落ち着いているので、あわてずに来てほしいと告げ、それと菓子折りの調達を頼んだ。 最初に助けて下さった自転車の男性が応援を求めた先は、家の前の道路の向かいの小学校だった。裏口があって、おそ
光が丘警察署
練馬光が丘病院を出て、母を実家に送るのは、家内に任せた。俺は光が丘警察署に行く。駅から少し探したが、たどり着く。練馬光が丘病院で質問をされた刑事さんの名前を伺っていたので、アポなしだけどもお話ししたいと受付で告げる。練馬光が丘病院では貧相な服装だった刑事は、制服を着用していて貧相なイメージはない。ああ、服装でこんなに印象が変わるんだなぁと妙なことに関心した。 最初に助けて下さった方にお礼がしたい
方針の説明
翌日、母に、最初に助けて下さった方の連絡先を教える。父は個室に空きがあって、その日に移動することができた。俺は今日は、仕事をするつもりだった。が、練馬光が丘病院から、病状や今後の治療の方針について説明したいので、家族も来てほしいと母に連絡があったという。できれば一緒に聞いてくれという。 まあ、普段、何もしていない弱みもあって、こんな時くらいはしょうがない。仕事を中断。練馬光が丘病院に行く。今日は
抗生物質の投与
翌朝、母から電話があった。 「今日、先生が説明したいから来てくれって。で、自分だけ今、練馬光が丘病院にいるんだけど、先生が、あなたはいないのかって。呼ばなかったというと、じゃあ、電話しますよって」 しばらくすると、医師から電話。 「昨晩、倒れました。またMRの検査中に、苦しがって、検査を中断しました。中断はしてしまいましたが、それでも画像がある程度とれて、脳の表面に膿と考えられるものが発見さ
ICUのストレス
数日後、ICUが嫌だと父が言い出す。まあ嫌だと言えるだけ元気にはなったのだが・・・。 発作も起きていない・・・というか、起きないように薬でコントロールできているので、いいでしょうと、一般病室に移る許可が出る。それでも、いきなり個室には、移さず、2日間は、リカバリールームで経過観察。その後個室に。 でも何も良くなってはいない。発作を抑えるのに成功しているだけで、発作がでなければ、本人は自分は元気
セカンド オピニオン
家内は、友人達なり近所なりに父のことを話したようだ。まあ女性というのは、そういうもんなんだよな。俺は、とても自分から話すような気にはならないけども。 口コミとかその評判とか、救急搬送だったわけで、俺は今回の練馬光が丘病院については、うんもすんもない。けれどまあいろいろ言う人もいる。日大が撤退して、経営や運営が変わって。それは事実なんだが、それが、イイの悪いのの話でもなかろうて。事実上新設に近い状
予想されていた発熱
父は、個室の病室で小康状態。点滴による抗生物質などの投与と並行し、糖尿病で高血圧であるがゆえに、カロリー計算のできた食事、インシュリンなど、管理された状態だった。発作を抑える薬も使われていて、個室に移ってから発作も出ない。管理されているので体力も回復していく。このままの状態で、抗生物質の投与の効果が出てくれば、退院しても発症は抑えられるのだろうと、安心もできる。シャワーも使ったというし、リハビリで
オペの決定
次の日、呼び出された。できれば、俺も来てほしいと担当の医師が言っていると母が言う。行ってみたが、かなり長い時間待たされる。まあしょうがない。 やがて医師の話。昨日からの発熱は、血液検査の結果もあわせると、かなり深刻な事態と判断された。膿が悪さをしていると考えるのが妥当だろう、と。手術して開いて洗浄することが一番の方法だと考える。手術をしない場合にできることは、解熱剤を使って熱を抑え、抗生物質の種
オペの当日
朝方の渋滞にぶつかり、母をピックアップして練馬光が丘病院に着いたのは、8時を少し廻っていた。看護婦が入れ替わり立ち代わり。話もロクにできないのだが、まあ、今更話すこともないようにも思う。手術室には、ベッドではなく車椅子で向かうことになった。エレベーターで移動し、手術室に向かう廊下の入り口で、家族はここまでと止められた。「じゃあ」と父は片手をあげて車椅子で押されていく。後ろ姿に「がんばってこいや」と
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2日ほど、手術の後の発熱が続いたが、平熱に戻った。 手足のまひ、言語、感覚の異常はない。もともと手足に関して言えば、リューマチもあるんで。今回の手術で、特に、どこかが悪化したということはないようだ。 糖尿病、高血圧と爆弾は抱えているから、時間が要するかもしれないが、体力の回復を待つ。 その後は、少し歩いて、様子を見て、リハビリというかなんというか。 一番、危険な状態は、過ぎたんだろうと
ここまで読んで下さったなら、
もしも、ここまで読んで下さったなら、何はともあれお礼を申しあげます。 一応、今回のテーマは、練馬光が丘病院に救急搬送された数日のことの記録なので、このへんで終わっておきます。十分長くなってしまったしw 父の退院は50日後でした。月に2回の通院(検査)で今はけっこう元気でやってます。 とりあえず、ここまで読んで下さったなら、+1をしてくれると嬉しです。 <g:plusone si